がん末期の生き方と深く関わる問題だが、余命いくばくもないと自ら悟ったとき、どのようにすれば今を元気に生きられるか。
心の平穏とやすらぎを得られる過ごし方とは? その年の1ヵ月余り、がん末期の男性患者Nさんと私が交わした「メールの対話」は、そのことを考えるための生の記録と呼べるかもしれない。
がん末期患者Nさんとの対話 「私、あまりしやべれないので余計な返事はしませんから、お願いします」 体調がすぐれないのか、少し息苦しそうな気配が電話の向こうからそのまま伝わってきた。
翌日、もう一度電話を入れると今度は「いま点滴中なんです」。
そのあと、同じ声がこう言った。
 「互いのやりとりは電話ではなく、メールでお願いできませんか」 これが、彼とのそもそものなれそめだった。
在宅ホスピスを開始して1ヵ月後、日付は一九九九年九月九日。
このとき転移性肺がんの末期症状がNさんをひどく苦しめていたのだ。
大量に溜まった胸水が胸の内部を圧迫して痛みが止まらなかった。
肺機能低下による呼吸苦もあった。
痛み止めの作用のせいか、Nさんの意識は昼も夜も朧朧とする時間が多かった。
  一九六〇年生まれ。
大手電機メーカーに勤務する、技術系の有能な中堅会社員。
三歳下の妻と二人の子(高校生の娘と幼稚園の息子)、そして自分の両親が同居する六人家族。
一家の暮らしを大黒柱として支えるNさんのがんが再発し、「あとI、ニカ月の命か」と自ら覚悟していた時期に、私は彼と知り合った。
 Nさんの最期の日ぱ、その年の十月二十一日にやってくる。
余命いくばくもない時間を、前向きな姿勢で生き、Nさんは最期までNさんらしかった。
何がNさんらしかったかと言えば、与えられた命を精一杯頑張って生き抜いたこと。
がん患者が死と向き合うとき一終末期医療を考える がん末期の孤独をやわらげる方法の一つは、できるだけ「ふつうの生活」を送ることだという。
Nさんの場合、大好きなパソコンいじり、妻との語らい、幼い息子と遊ぶことで心の孤独は癒されていたようだ。
また1ヵ月余りで、Nさんと私の往復メールは九十通以上を数えたが、そうした日々、私ぱ、がん末期の彼の現実を忘れるような瞬間が何度かあった。
その死をほとんど意識しない語らいのなか、私白身、死を受け入れることの意味を学んだ。
死期を悟りながら、本人が死を意識しなくなった一瞬に、自然な最期のときが訪れる。
それが実は、人間の死であることをNさんの生き方から教わったように思うのだ。
自宅で死にたい Nさんが進行がんと診断されたのは九七年一月。
病名は、「軟部肉腫」。
治りにくいがんの一種で、こぶのようなふくらみが足の筋肉などにできる。
専門医以外には発見が難しく、早期治療が遅れると肺への転移を起こしやすい。
 かなり珍しい病気で、膝の痛みを三年近くも訴えたNさんに対し、何人かの医者ぱ診断を誤った。
そして、地元のG大学病院で本当の病名がわかったときぱもう手遅れに近かった。
ちょうどNさんが三十七歳の誕生日を迎えたころである。
早く治さなければいけないと思い、Nさんは大学病院で手術を受けた。
 初回のがん手術で右大腿部切断、身体障害者となったNさんは義足歩行訓練に励み、一度は職場復帰した。
だが手術後一年間続けた抗がん剤治療も効果なく、翌九八年夏、がんが肺に転移した。
CT画像上、あずき大のがん病巣が両肺に三十ヵ所ほど。
おそらく、再発がんのNさんの病状は治る一線を越えていたと思われるが、それを承知でくもしも、再手術がうまくいけば治るかもしれない〉と彼は思った。
まだ俺は病気になんか負けないぞ、現代医学をもう一度信じて頑張ってみよう。
大学病院の主治医は「ふつうぱやらないんですけどね」と言ったが、患者本人が二度目のがん手術を強く希望した。
 二度目の手術からわずか三ヵ月後の同年十一月、Nさんの期待は裏切られ、またも肺の表面に白い影があらわれた。
転移性肺がんの再発だった。
Nさんはもう手術も抗がん剤も信用する気になれない思いであった。
主治医も三度目の手術は勧めなかった。
そのころ、Nさんが主治医と交わした会話。
 「私のがんは治りますか? 正直なところを聞かせてください」 「統計上、手術によって生存時間が延びる可能性はありますが、完治ということは考えにくいと思います。
手術のほかに放射線と抗がん剤がありますが、Nさんの症状に放射線は全く効果がなく、抗がん剤も一時的に症状の進行が止まるかもしれませんが、それで治るということはありえません」がん患者が死と向き合うとき一終末期医療を考える Nさんは、自分の命の残り時間を知りたいと思った。
「では、ずばりあとどれくらい持ちますか?」 と聞いたら、主治医はこう教えた。
「何もしなければあと半年、一年は無理でしょう」 実のところあきらめてくださいという、医者の言葉を、Nさんはどんな気持ちで聞いたか。
のちに、私宛てのメールでこう綴る。
 〈本当にいろいろ悩んだのですが、手術も抗がん剤も、自分で「治る」という見込みがあるから今まで耐えてきたのです。
望み薄な治療のために、またあんな苦しい思いをするのは嫌だ、体を鞭打つようなつらい思いをするよりも、何も自覚症状がないですから普通に出社して、みんなの顔を見ながら大好きな仕事をして、精神的に満足な日々を過ごしたい。
自分の命に関わることですが、具体的な治療は何もせずに過ごすという決心をしました〉 それからというもの、温泉療法やがん免疫療法のほか、アガリクスやサメの軟骨、プロポリスなどを、お金の続く範囲で試してみた。
そうしてNさんは半年間をふつうに暮らした。
九九年八月初旬、がん末期の症状が現れ、胸の痛みと呼吸苦が襲った。
このとき、Nさんが訪れ力先がペインクリュック小笠原医院(前述)だ。
 「私は、家族と一緒に過ごし、自宅のベッドのうえで死にたいんです」 死を覚悟したNさんの希望に対し、小笠原一夫医師は言った。
 「Nさん、大丈夫だよ。
苦しんで死ぬような死に方は絶対させないから」 同医院の患者記録によると、Nさんはちょうど百四十人目の在宅ホスピス患者であった。
最後のライフワーク 在宅ホスピスを開始した時点で、Nさんは「俺は最後まで慌てないぞ」と覚悟を決めていた。
が、当初の二週間ほどは無気力な時間が過ぎたという。
それはそうかもしれない。
孤独な死を受け入れるのに、三十九歳という彼の年齢は若過ぎたのだ。
 Nさんは思った。
自分はいつも人生をポジティブな発想で生きてきた、この思いだけは最後まで持ち続けたい。
そのためには、絶望的な状態でも何か意欲を持だないと体より心が先にダメになる。
そう気を取り直したNさんは、体温と血圧、服薬時間などの記録表をノートパソコンで自作した。
「仕事も趣味もコンピュータ」という彼には至極簡単なことだ。
次に、キーボードを叩いて闘病経過をまとめると、自分の心が少し前向きになれた気がした。
それでは次に、個人用ホームページを久しぶりに更新してみるかがん末期のNさんの頭に、「最後のライフワーク」構想が浮かんだのはこのときである。
 それは、身体障害やがん末期のつらい境遇で、同じ悩みを抱く人の心を励ますため、自分の闘病日誌のホームページを作りたい、ということだ。
 「僕は、自分のホームページを世の中に公開してあとあとまで残したい。

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